@article{oai:ncu.repo.nii.ac.jp:00001892, author = {Mori, Tetsuhiko and 森, 哲彦}, journal = {人間文化研究, Studies in Humanities and Cultures}, month = {Jul}, note = {カント批判哲学は「自然の形而上学と人倫の形而上学」の枠組みを有する。ヤスパ-スは、カント哲学を認識論として、また存在論として全体的な統一体と解釈する読み方を主張する。カントの理論理性に対する実践理性の優位、物自体に関わり、ヤスパ-スの理性と実存、その相互関係を解明し、カントに対する精神史的解釈の可能性を試みる。実践理性の第一根拠から「理論理性」に対する「実践理性の優位」を提唱し、物自体への思考の道をカントは示す。現象と物自体を明確にカントは区別する。物自体を示す超越論的仮象の内容は、魂の不死、人間の自由、および神の現存在の問題である。物自体の思考性からヤスパ-スの理性から実存(Existenz)への道が予測される。ヤスパ-スにとり「理性と実存との徹底的な両極性は、排他的な関係」(V.d.E.48-49)ではなく「相互の結びつき」(V.d.W.114)である。従って「理性は実存に担われており、〔…〕実存は理性によってのみ明瞭となり、理性は実存によってのみ内実(Gehalt)をえる」(V.d.W.48)。そして実存は自己がそのような超越者(Transzendenz)への帰依に関係することを真に自覚するとき、初めて実存することになる。カントの世界(自由)、魂、および神の三つの超越論的仮象(物自体)に対応させて、ヤスパ-スは、1 世界、2 実存、および 3 超越者(神)の三つを挙げる。それは世界から実存へ、さらに実存から神への超越を通してである。カントとヤスパ―スとの類似性を指摘すると、両者は、理性は結合し、統一する能力、力とすること。カントは理論理性に対する「実践理性の優位」を指摘し、ヤスパ-スも「実存のない理性は空洞である」(V.d.W.42)として、理性に対する「実存」の優位を示すこと。カントの物自体はヤスパ-スの超越者と同様に現象の背後にかくれて、認識の場所に姿を現さないこと、である。}, pages = {109--123}, title = {カント批判哲学とヤスパ―ス論考}, volume = {28}, year = {2017} }