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アイテム
押川則吉と台湾総督府殖産部(1895~1897)
https://ncu.repo.nii.ac.jp/records/3135
https://ncu.repo.nii.ac.jp/records/3135bd1e06bb-f2a8-4f96-9f0d-147f4ce6f55b
| 名前 / ファイル | ライセンス | アクション |
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| アイテムタイプ | 紀要論文2 / Departmental Bulletin Paper(1) | |||||||||||
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| 公開日 | 2022-03-29 | |||||||||||
| タイトル | ||||||||||||
| タイトル | 押川則吉と台湾総督府殖産部(1895~1897) | |||||||||||
| 言語 | ja | |||||||||||
| タイトル | ||||||||||||
| タイトル | Study of Taiwan Governor-General's Department of Production (1895-1897) | |||||||||||
| 言語 | en | |||||||||||
| 言語 | ||||||||||||
| 言語 | jpn | |||||||||||
| キーワード | ||||||||||||
| 主題Scheme | Other | |||||||||||
| 主題 | 台湾総督府 | |||||||||||
| キーワード | ||||||||||||
| 主題Scheme | Other | |||||||||||
| 主題 | 殖産 | |||||||||||
| キーワード | ||||||||||||
| 主題Scheme | Other | |||||||||||
| 主題 | 農政 | |||||||||||
| キーワード | ||||||||||||
| 主題Scheme | Other | |||||||||||
| 主題 | 押川則吉 | |||||||||||
| 資源タイプ | ||||||||||||
| 資源タイプ識別子 | http://purl.org/coar/resource_type/c_6501 | |||||||||||
| 資源タイプ | departmental bulletin paper | |||||||||||
| アクセス権 | ||||||||||||
| アクセス権 | open access | |||||||||||
| アクセス権URI | http://purl.org/coar/access_right/c_abf2 | |||||||||||
| 著者 |
やまだ, あつし
× やまだ, あつし
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| 抄録 | ||||||||||||
| 内容記述タイプ | Abstract | |||||||||||
| 内容記述 | 本論は、押川則吉が台湾総督府殖産部にいた時代(1895年~1897年前半)の殖産政策、特に農政はどのようなものか、そして押川以降の殖産政策は、押川時代とはどのような違いがあるかを考察したものである。日本統治期台湾の殖産政策を語る言葉として「農業台湾」があるが、これは1898年以降を指す。この時代に台湾総督府殖産局長となった新渡戸稲造は「糖業改良意見書」(1901年)を提出して製糖業政策を進めた。また新渡戸は、自らの出身校であった札幌農学校出身者を、台湾に多数引き入れた。ではそれ以前、台湾に渡る以前から農商務省の官僚として農政に従事していた押川則吉が台湾の殖産政策を主導した時期はどうだったのだろうか。押川時代の台湾総督府殖産部の構成は、高等官は東京帝国大学(およびその前身諸学校)の卒業者を中心とし、判任官には拓殖課に北海道庁出身者を複数入れていた。そして殖産部の4課のうち、拓殖課、林務課、鉱務課は1896年の民政移管とともに速やかに活動を開始していた。しかしながら農業を管轄していた農商課は、1896年時点では調査活動を主とし、台湾人へ積極的な活動を展開しなかった。これは北海道をモデルに日本からの移民を招致しようとしていたものと考えられるが、肝心の日本からの移民は、簡単には来そうになかった。農商課と拓殖課の調査の成果は『殖産部報文』(後『殖産報文』)としてまとめられるものの、押川時代には十分活用されなかった。林務課の施策は、原住民の抵抗の前に思うように進展しなかった。山地政策自体が、樟脳は専売局、他は警察主導となって殖産の手を離れて行った。鉱務課も金ブームが落ち着くと業務量が減少した。結局、押川時代の殖産部は当初こそ活発だったものの、1897 年になると早くも問題点が見えていた。押川が総督府を辞した後、乃木希典総督時代半ばの1897年10月、台湾総督府は組織改革を断行した。部は廃止されて部内の4課はそのまま4掛となり、殖産部は殖産課へと縮小された形へとなった。そして、児玉源太郎と後藤新平の時代になると、今度は1898年7月に4掛から2掛(農商・拓殖)に縮小された。これらの縮小過程で東京帝国大学出の人材は順次去り、札幌農学校・北海道庁出身者の柳本通義が殖産課長として、殖産行政を指揮することになった。柳本時代の殖産行政は、1898年に殖民地の調査事業を中止、日本からの移民招致を中止する一方、翌1899年から共進会を開始した。これは、押川が農商務省官僚時代に行った手法と同じで、台湾人地主や農民の農産品生産を奨励した。移民重視の北海道モデルからの離脱であった。1901年の「糖業改良意見書」に繋がる動きはここから始まる。押川時代とそれ以降との違いは、押川が北海道モデルによる移民重視政策をとったのに対し、それ以降は北海道庁出身の柳本の手で、北海道モデルが否定され、逆に押川が得意としていた共進会を導入したことにあった。 | |||||||||||
| 言語 | ja | |||||||||||
| 書誌情報 |
ja : 人間文化研究 en : Studies in Humanities and Cultures 巻 37, p. 119-130, 発行日 2022-01-31 |
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| ISSN | ||||||||||||
| 収録物識別子タイプ | PISSN | |||||||||||
| 収録物識別子 | 13480308 | |||||||||||
| 書誌レコードID | ||||||||||||
| 収録物識別子タイプ | NCID | |||||||||||
| 収録物識別子 | AA11807171 | |||||||||||